五町村の業態生業の割合
昭和29(1954)年の合併申請時の、五町村の現況はどのようなものであったろうか。それは新春日部市の成立時の市勢を示すものでもある。合併申請時書に付された「現況表」によればその概要は以下のとおりである。
まず、「業態生業の割合」をみると、都市的業態のうち商工業の従事者数では新市全体で1万7435人のうち春日部町の1万648人が飛び抜けて多く、幸松村の約3000人を筆頭として他の三村はいずれも1000人台である。
一方、農業従事者では春日部町と武里村が2600人台、他の三村がほぼ2000人前後となっている。これを各町村の全人口に対する割合でみると、商工業従事者が過半数であるのは春日部町の69.4パーセントと幸松村の55.7パーセントであり、武里村、豊春村、豊野村はいずれも30パーセント台となっていて、春日部町の都市的性格が際立っていることが確認できる。
30人以上従業員の会社工場として上げられた10社のうち、130人を擁する東武鉄道株式会社を筆頭に10社は春日部町に属し、そのほかは幸松村の石井酒造株式会社のみであった。幸松村の商工業従事者が5割を超えていたのは、幸松村に田中酒造があったほか、地区内の八丁目、小淵などが古利根川をはさんで日光街道中粕壁宿の延長線上にあり、古利根舟運とあいまって、農村というより都市的地区としての性格を持っていたためである。
越谷町よりはるかに都市的だった
新市全体では商工業従事者が全人口の54.6パーセント、農業従事者が36パーセントとなっている。この数字は、この年11月3日越ケ谷町ほか九町村が合併して成立した越谷町の18.7パーセント、60.0パーセントと比べるならば、はるかに都市的であるといえよう。越谷では春日部より広大な農村部分を抱え込んだとはいえ、春日部町の商工業従事者数は越谷町の8,300人余の2倍を超えており、前年度予算規模でも春日部町は越谷町の2847万円余の1.4倍であって、当時にあっては「埼葛唯一の交通文化の中心地」という合併申請書の言葉はあながち誇張とはいえなかった。
もとより、当時の春日部は市街地中心部の商店は、旧村の村役場に至るまで伝統的な低層木造住宅であり、各町村に図書室が、また春日部町に映画館(東武劇場)があったほか、目ぼしい文化・娯楽施設は皆無であったことは言うまでもない。当時の町並み、町村役場、図書館、学校などの姿は、市制施行記念映画「春日部市誕生」(毎日映画社制作)のなかに収められている。
税負担の最多は春日部町の2834円。最小は豊野村の975円
次に、一人当たり国税負担額では、春日部町が2834円と最も多く、幸松村の2040円がこれに次ぎ、以下武里村1677円、豊春村の1301円、豊野村の975円となっている。町村税については、豊春村と豊野村が1500円台と多く、春日部町の1400円台がこれに次ぎ、幸松村、武里村は1300円台と低くなっているが、全体的に町村間の差は小さい。これに対して一人当たり県税負担額は春日部町の273円に対して、幸松村の72円から武里村の9円まで極端に差が大きくなっている。
前年度予算額でも春日部町が4041万1406円で首位を占め、幸松村が1400万円台でこれに次ぎ、武里村、豊春村が1100万円台、豊野村が1000万円台となっていて、いずれも1000万円台を超えている。
春日部駅と八木崎駅の一日乗車客数は7409人
交通通信の普及状況では、まず東武鉄道6駅の状況客数は、春日部町(春日部・八木崎の二駅)の一日平均乗車客数7409人、武里村(武里・一ノ割の二駅)が1174人のほか豊春駅、牛島駅は500人以下に止まっている。
また、電話加入数は新市全体でも516回線と低いのに対して、ラジオ聴取戸数は4333戸と新市全戸数の75パーセント近くに及んでいた。新越谷町で21台を超えていたテレビについては、春日部ではまだゼロであった。
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
現代(昭和戦後期)
第二章 春日部市の誕生
第二節 春日部市の誕生
合併地域の現況(P367)より