春日部市は、水害の多いまちだ。首都圏外郭放水路ができるまでは、春日部駅前や市役所前などの市の中心地もたびたび浸水している。春日部市郷土博物館に水害の歴史についての資料があったので、紹介する。
詳しい資料は、郷土博物館で見てもらいたい。
水害・水防と春日部
春日部市には、古利根川、庄内古川(中川)、江戸川など、関東有数の大河川が縦断しています。
河川は、農業用水や水運など流域に暮らす人々に恵みを与えます。一方、人々の生命・財産を一瞬にして奪い取る水害という自然災害をもたらします。
春日部の先人たちは、さまざまな水災に遭い、これを克服しながら、河川と共に暮らしてきました。市内で甚大な被害をもたらした水害と、水防(水害を警戒して防ぐこと)の歴史を紹介します。
明治時代以前の水害・水防
明治時代以前、市域は幾度も水害に遭っています。
天明3(1783)年7月には信州浅間山の噴火により、火山灰が河川を埋め、これ以降の水害頻発の一因になったといわれています。
春日部では、水害を克服するため、粕壁宿名主家の見川喜蔵が、水害で被災した人々に粥を施し、自費で堤防を補強するなど、人々の救済や地域の水防に尽力しました。喜蔵が補強した堤防は、「喜蔵堤」とよばれ地域の人々から崇敬されました。また、上金崎村名主の石川伝兵衛は、幕府から江戸川通り水防見廻り役に任命され、江戸川の堤防管理に尽力しました。
明治43(1910)年の水害~天明依頼の水害
明治43(1910)年8月13日、連日の豪雨により、北埼玉郡上中条(熊谷市)の中条堤が破堤するなどし、濁流は東京湾までの広範囲に氾濫し、県内に甚大な被害をもらたしました。春日部市域では、12日午前9時前後に、八丁目付近で古利根川堤防が破れ、午後9時には上柳付近で庄内古川が破堤、翌13日には古利根川の新町橋が流失しました。
市域は、高台になっている一部をのぞいて「泥海」と化しました。春日部市域を含む、南埼玉郡・北葛飾郡の被害は、県内では軽微な地域でしたが、炊き出しや食品救助の面では県平均を大きく上回りました。これは、この地域が低地で勾配の乏しい低地であり、排水条件が悪く湛水(たんすい)が長期間にわたったためといわれています。
この水害により、利根川・江戸川の水防計画が見直され、河川の拡幅工事が行われました。
昭和22(1947)年の水害~明治43年以来の水害
昭和22(1947)年9月14・15日、キャスリン台風(カスリーン台風)による豪雨が続き、16日午前0時、北埼玉郡東村(加須市・旧大利根町)において利根川の堤防が決壊しました。濁流は南下し、市域には、16日午後6時ごろに到達。大水は、音をたてながら、まるで急流のようにおしよせ、市域をほぼ浸水させました。豊野村では、全村が水浸しとなり、罹災者は家の屋根に登り、救援が来るのを待ったといいます。下柳では、牛や馬とともに水塚に避難し、コッペパンの配給をうけながら、約1か月もの間、避難生活をおくったといいます。
この水害により、江戸堤防の改修工事が計画され、昭和26(1951)年に宝珠花市街地の移転工事が行われました。
水塚
水塚とは、洪水の際に避難するため、屋敷内に築き上げられた土盛りや、その上に設けられた建物をいいます。水害による被害が長期におよぶときにも、その機能を十分発揮したと伝えられています。
市内の水塚は、現存するものが217基、消失したものが82基あり、合わせて299基を数えます(平成25年1月現在)。主に古利根川左岸に広がる中川低地の自然堤防、および後背湿地に分布しています。なかでも、中川(庄内古川)と江戸川にはさまれた庄和地域に数多く分布しています。築造年代のわかるものは多くなく、大半はあ江戸時代後期から明治時代にかけて築造されたものです。<了>
『企画展(第55回)「水害」(文化財担当者会巡回展)
歴史講座「近代埼玉の水害と治水」関連展示開設シート』より全文掲載しました。
郷土資料館は粕壁小学校の横の教育センター内にあり、春日部市にまつわるさまざまな歴史資料が多く残されている。展示内容も工夫を凝らして開催されているので、興味があったらぜひ足を運んでみてはいかがだろうか。
また春日部市HPでは「浸水被害実績図」として、平成5年から平成23年に起きた台風、および低気圧などの特に被害の大きいものの浸水被害実績を公開している。