【春日部市史】成金の代名詞「鈴木久五郎」

2020年7月に春日部市郷土資料館にて「元祖!成金鈴木久五郎―鈴久を生んだ商いのまち春日部―」という企画展が開催されました。鈴木久五郎は、株で儲けて成金と呼ばれた明治から昭和を生きた実業家です。成金鈴久の名は、ある程度知名度はあるが、その実像はあまりわかっていません。企画展では、さまざまな調査を行い、時代背景とともに鈴久の生涯を伝えていました。

 パンフレットからその生涯を転載しました。
 写真は「春日部市視聴覚センターブログ」より

1 成金鈴木久五郎

 鈴木久五郎(1877-1943)は、春日部市内八丁目出身の実業家です。明治37(1904)年、日露戦争開戦後、株の売買をはじめ、数日間あるいは数カ月で300~500万円の巨利を儲けたともいわれます。しかし、同40年に戦後の反動で起きた恐慌により株式が大暴落し、没落に追い込まれました。

 久五郎は、全盛を極めた当時から「日本の当たり屋」などと羨望され、街では鈴久の噂で持ち切りになり、電車の中でも銭湯の中でも酒場の隅でも、三人よれば必ず鈴久の話が出たといいます。また、昭和初めには財界のゴシップとして、戦後には小説・映画の題材として取り上げられたため、「成金の草分け」「天下の鈴久」「『成金』という言葉は彼によって創作されたようなもの」「槿花一朝(きんかいっちょう)の大成金」など、過分な脚色があり、その実像はよくわかっていません。

 果たして、成金鈴久はどのような足跡をたどったのでしょうか。

 

2 鈴久の故郷 八丁目

 久五郎は、明治10(1877)年8月23日、八丁目村(現八丁目)の鈴木庄五郎の次男として生まれました。

 出生地の八丁目村は、日光街道沿いの集落で、粕壁宿と古利根川を境にしています。古利根川に架かる新町橋(県道319<旧日光街道>)と地続きに、新町とよばれる町場が街道沿いに連なっていました。

八丁目村の鈴木家は、江戸時代には同村の名主を勤め、酒造業を営んだ豪農で、当主は代々兵右衛門(ひょうえもん)を名乗りました。屋号は「角兵(すみひょう)」といい、新町に店を構えて、商売をしていました。

3 相場師へのみち

 久五郎は、明治23(1890)年13歳の時に、東京深川の米問題で親戚の中村清蔵の元に身を寄せ、築地の高等商業学校に通ったといいます。その間、「転ぶか起きるか勝負に金を取るが捷徑(ちかみち)である」「天下に名を為すには相場を措いて他にない」と悟りました。明治30(1897)年、20歳の時に奉公を終え、村に帰ると、鈴木家は前年に亡くなった庄五郎の跡を兄兵右衛門が継いでいました。同年、兄が鈴木銀行を立ち上げると、久五郎は、はじめ行員として働き、道楽をしたため勘当されますが、同35年9月に日本橋小網町(現兜町)に支店を開設させ、東京支店長に就任します。

 明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発します。同11年、久五郎は外国の情勢を学ぶため外遊しますが、ロシアのバルチック艦隊の進撃の報を聞き、急ぎ帰国し、兄を説得し、日露戦争の戦勝に賭け、株式界に乗り出します。

幻の鈴木銀行

 鈴木銀行は、明治30(1897)年12月、久五郎の実兄兵右衛門、叔父の善五郎、従兄の松太郎が設立した合名会社です。設立当時は、越ヶ谷町に本店、草加町・鳩ケ谷町に支店が置かれました。粕壁町にはすでに粕壁銀行(明治28年設立)が設立されていたため、未だ銀行がなかった県内の旧宿場町の商業金融業を掌握しようとしたと考えられます。

 その後、銀行は明治38年9月の日比谷焼打事件の余波や、同40年には株式投資による使い果たしの噂が立ち、度々取り付け騒ぎが起こり、同年6月に休業、営業も一時再開しますが、鈴木家の東京・地方の土地や書画骨董等の財産の整理が行われ、大正8(1919)年に廃業しました。

 わずか20年余の短命の銀行であるため、鈴木銀行に関する史資料は決して多くありません。しかし、旧鈴木邸の襖下張りから、鈴木銀行の日誌や帳簿の断片が新たに見出されました。地方の中小銀行の取引等の実態が窺え、大変貴重です。

4 日露開戦と好景気

 明治37(1904)年2月、日露戦争が勃発します。開戦後、時々の戦報に一喜一憂し、株式相場は小高下しますが、翌38年1月下旬から高騰の一途をたどり、同5月の日本海海戦での圧倒的な勝利の報により、紡績・鉄道・工業株は暴騰を続けます。久五郎は、鈴木銀行と自身の預金を資金に買い一点張りの姿勢を勢を貫き、日本精糖、大日本ビール、鐘ヶ淵紡績(かねがふちぼうせき)(鐘紡<かねぼう>)、市街鉄道、東京株式取引所の株などで儲け、企業の統合を図りました。

鐘紡と鈴久

 久五郎は「株式界空前の活劇」と称される鈴久(鐘紡)事件で渦中の人となります。明治38(1905)年、鐘紡の大株主三井家が突如として鐘紡株を手放すことになり、当時の鐘紡の支配人武藤山治(むとうさんじ)は、中国の錦糸商・呉錦堂(ごきんどう)に筆頭株主になるよう頼み、鐘紡株を買わせました。呉錦堂は、鐘紡株を思惑売買していたところ、明治39年夏、紡績株の合同を企図していた久五郎がこれに目をつけ、安田善次郎の安田銀行の援助も受け、鐘紡株を買って買って買い占めました。久五郎は、武藤に紡績業の合同を増資を提案しますが、決裂し、臨時株主総会で武藤ら経営陣は総辞職します。その後、増資されますが間もなく戦後恐慌を迎えることになります。

若い彗星の鈴久

 わずか30歳で当代きっての当り屋となった久五郎の成金振りは、当時そして後年にも世間で噂されました。とりわけ、当時料亭が立ち並んだ花街の東京新橋での逸話が残っています。集まった芸者に札束をじゃんけんで分けやるとか、丸裸の芸者に配膳させたとか、何十人もの芸妓に自分の紋所のついた晴れ着を着せて街を練り歩いたとか、追儺式(ついなしき)の豆代りに一升枡から銀貨をばら撒き、女中に拾わせたとか。今となっては真実かどうか定かではありませんが、飛ぶ鳥を落とす勢いの久五郎の一端がうかがえます。

5 政財界の交遊録

 実業界で名を挙げた久五郎は、政財界にも交流を広げていきます。なかでも中国の革命家孫文(逸仙〈いっせん〉)には、来日時に資金を援助し、愛娘に文子と名づけるなど、親交があったようで、遺品のなかにも孫文や中華民国ゆかりの品が伝えられています。日本では、大隈重信桂太郎清浦奎吾伊東巳代治との交流があり、一時は桂内閣の経済基盤だったとも噂されました。財界では、渋沢栄一安田善次郎雨宮敬次郎池田成彬根津嘉一郎淺野總一郎などと交流を持っていました。

 明治41(1908)年久五郎は、西園寺内閣の増税政策に反対する実業界の期待をうけ、高崎で衆議院議員選挙に出馬、当選しています。

6 株の暴落

 明治38(1905)年9月ポーツマス条約の締結、日比谷焼打事件により一時株価は下落しますが、同40(1907)年1月中旬までは好景気でした。株価の高騰は1月18日までで、休日を挟んだ21日から株価が暴落します(日露戦争後の恐慌の始まり)。久五郎もその日まで「一千万円の成金」と謳われ、株価が暴落しても買いの姿勢を貫きますが、ついに立ちいかなくなります。3月には鈴木銀行に預金者が殺到する取り付け騒ぎが発生すると、久五郎は政財界の人脈を頼り、救済を乞いますが断られ、窮地に陥りました。その後久五郎は、関係のあった会社・銀行の縁を絶ち、取引関係は他人に任せ、一線から退くことになりました。

7 春日部と鈴木兄弟

 久五郎は「成金」と揶揄されながらも、地元春日部では兄兵右衛門とともに現在の社会事業と呼ばれるような事業にも尽力したといわれます。粕壁町には明治40(1907)年、鈴木家が医師を招き、粕壁(安孫子)医院・持木(もちき)医院・吉田医院の洋風の病院を建設します。また、銀行の従業員や使用人の学費を負担し、学校に通わせ、埼玉学生誘掖会(ゆうえきかい)も支援し、人材の育成にも力を注ぎました。久五郎の支援を受け、官僚として大成した人物もいました。

 鈴木家の邸宅の向かいには牡丹園が造成され、政財界の有力者を招いて交流の場として利用され、のちに「粕壁の牡丹」という観光名所にも繋がっています。

8 晩年の鈴久

 久五郎の晩年はよく知られていません。株価暴落後「没落」したともいわれますが、大正・昭和時代の写真からは髭をたくわえ、矍鑠(かくしゃく)とした姿がうかがえ、また日誌からは、ほぼ休みなく、様々な政財界人との交流をもち、株の取引きや商談をし、新規の事業に取り組もうとしていたようです。飲酒を楽しむ一方、時に一家を巻き込んで禁酒をするなど「没落」したとは思えない生活ぶりもうかがえます。大正13(1924)年久五郎は「モウ一度旗を挙げますよ(略)最近は酒も廃(や)めて専心再起の準備をして居ます」と語っています。

9 久五郎の愛娘文子

 晩年の久五郎は、娘の文子を大変かわいがりました。文子の名は自らが支援した孫文から名付けたといいます。文子は、女学校を卒業すると、松竹少女歌劇団(SKD)に入団し、芸名を田村淑子(たむらよしこ)と名乗ります。久五郎は、自らの人脈を活かし、政財界人に声をかけ「田村淑子後援会」を設立しました。文子はその後東宝に籍を移し、舞台女優として活躍します。アジア・太平洋戦争が勃発すると、文子は皇軍慰問団として戦地に派遣されました。文子が東南アジアへの慰問のさなかの、昭和18(1943)年8月16日、久五郎はこの世を去ります。享年67歳。文子は最愛の父を看取ることができませんでした。

10 成金 そして伝説へ

 久五郎は、生前にも株式界のゴシップ記事として取り上げられましたが、昭和28(1953)年7月、読売新聞紙上で「黄金街の覇者」、同じく産経新聞紙上で「近世成金伝」が連載されると、再び脚光を浴びます。「黄金街の覇者」は、昭和29(1954)5月に映画化、同35(1960)年10月にテレビドラマ化されます。没後も成金の伝説は「株式民主化」のなかで大衆文化として「消費」され、語り継がれてきました。

春日部市郷土資料館
企画展示(第61回) 元祖!成金 鈴木久五郎―鈴久を生んだ商いのまち春日部―
パンフレットより転載