町村合併促進審議会と地区町村合併推進協議会
昭和27(1952)年5月、町村規模適正化委員会を設置していた埼玉県では、町村合併推進法の方針に基づき、適正化委員会に代えて28年10月6日に「埼玉県町村合併審議会」を設置し、審議会の答申を受けて、各郡単位に市町村の長および議会の議長全員をもって構成する地区町村合併推進協議会を結成させた。
しかし、町村の自発的な意欲に基づいて合併が実現されることを期待していた県および町村合併促進審議会は、事態が期待どおりに進まないのをみて、翌昭和29(1954)年2月、審議会において「現下の状勢上最も当を得たもの」として「町村合併試案」を決定し、強力に合併を促進する方針を取った。
公表された計画試案では、9市314村町村を8市81町村にしようというものであった。そのうち南埼玉郡では、春日部町と豊春・武里・幸松・豊野の四村を合併し、人口3万1,125人、面積38.32平方kmの新町とする試案が示された。
幸松村と豊野村は北葛飾郡であったが、「郡境界に拘泥しない」という作成方針が適用された。これにより、春日部町ほか四か村は山口宏春日部町長を会長として春日部地区町村合併協議会を結成し、合併実現に向けて相互に協議することとなった。委員は各町村5名ずつ、計25名であった。
合併試案の公表後、春日部地区近辺では新村を形成することが計画された新方村、桜井村、大袋村と、越ヶ谷町に合併する方針が示された増林村、大沢町の一町四か村は合併試案に不満で、これら町村が旧新方領地域に属することから春日部町との合併を目指す動きもあったが、広域になり過ぎることと春日部地区の合併協議が比較的順調に進展したことから実現しなかった。
合併の申請に至る経緯
政府は町村合併を促進するとともに、合併町村の財政を強化するため、昭和29(1954)年5月、各都道府県単独の補助金・負担金交付については合併町村を優先すること、国でも合併町村の起債を優先的に措置することを都道府県知事に通牒するとともに、同5月3日の憲法記念日と10月1日の町村合併促進法一周年を期して町村合併強調週間を実施することとした。
春日部地区町村合併促進協議会は、5月13日、全委員が出席して春日部町役場会議室において協議会を開催した。協議会は山口会長を議長として午後1時30分から4時50分まで行われ、議長は一町四か村の合併を全員に諮り、合併後市となることを条件に全員意義なく決定した。合併後に市になることが条件となったのは、合併後の人口が当時の地方自治法に規定された市の基準人口3万人を上回っていたからである。従って、これは春日部地区のみの問題ではなく、合併後人口3万人を超える町村ではいずれも希望するところとなり、結果的には春日部ほか11の新市が誕生することとなった。地方自治法に規定された市の要件としては人口のほかに、市街地内に軒を連ねている戸数(連たん戸数)が全戸数の6割以上であることが定められていたが、県は自治庁の実施調査を何とかクリアして市政施行=町村合併にこぎつけたのである。
春日部町ほか四か村とも20日にそれぞれの議会で昭和29年7月1日から各町村を廃止し、新たに春日部市を設置するという決議を可決した。翌21日、合併五町村長は連名で大沢知事に「町村合併について申請書」を提出した。この間の経過は合併についての異議、紛争もなく短期的かつ順調に推移したといえよう。
市名決定の理由
次に、新市名決定の理由として、古来からの春日部氏とのゆかりにより、昭和19(1944)年の内牧村と粕壁町の合併に際し春日部町と改めた経緯、春日部から東京に電車40分で通勤できる「埼葛唯一の交通文化の中心地」であると述べたうえ、合併関係町村はそれぞれ春日部町を中心として「密接不離の関係」にあり、商工都市として発展し、商品の取引も東京を中心に各県にその名を知られてるため促進協議会満場一致で春日部市と決定したとしている。合併町村間における春日部町の優位性から、新市名決定にあたって春日部市以外は問題にならなかったことが察せられよう。
また、新事務所を旧春日部町役場に置き、各村の旧役場を支所として暫定的に所管事務を遂行するとしている。ただし支所については、新市発足に当たって旧四村支所のほか内牧地区に出張所が設置された。
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
現代(昭和戦後期)
第二章 春日部市の誕生
第一節 町村合併促進法の施行(P361より)
第二節 春日部市の誕生(P365より)