農地が宅地、工場、道路に
春日部市は東京近郊で交通も便利なことから農業の土地利用、畑の水田化という変化だけでなくて宅地化や工業用地としての利用が目立って増えてきた。昭和30年代に入ると都市化の波が漸次押し寄せてきて、農地転用問題が登場してきた。昭和34(1959)年度において春日部農業委員会の宅地転用受理件数は132件、関係面積3.7町歩、工場敷地になったもの5件15町歩、道路その他につぶされた物20件6反歩であった。また、農地売買は283件23町歩8反歩、農地の貸付は53件5町歩、農地の引き下げは97件6町6反歩であった。
この時期、(昭和35年3月)に農地転用の許可基準が決定されて、生産性の高い優良農地を守る方針が出された。これは、農地を第一種から第三種までに分類し、第一種農地は原則として許可されない農地。第二種農地は転用が事業の種類、内容によって許可される農地。第三種農地は原則として許可される農地。要するに、このように生産性の高い農地を確保し低いものから転用していくことで、狭い国土が農業面も他の土地利用からも立派に達成されるように協力して貰うことになっている。
農業の大規模合理的経営を求める
こういう都市化の波のなかでも畑よりも米という傾向はまだ強かったようである。この時代になると、春日部市の農業振興政策として「大規模合理的経営」を求める新しい動きがでてきた。それは、春日部の一町弱程度の経営規模で米麦を主体とした農業経営では「文化生活を営めないので本市としては首都近郊地帯としての営農形態に進むことを考え合わせ土地改良問題の整備を基幹として生産基盤の確立と同時に農業振興をはばむ一切の条件の免除につとめ……(略)」としてこれからの農業形態を「米」から畜産、園芸の振興に力点をおくような呼びかけをしている。もっともこういう動きはすでに、豊野農研では早い時期に「フリージアの研究」を始めている。また、水田に「茄子やトマトを作って成功させている。」事例もでてきた。また、内牧のツルの子カキ、長十郎ナシ、藤塚・小渕のモモが最近めきめきとのびてきていたので地域の人々の一層の努力をもとめ、農業総合収益の増大を期待して集団産地の育成に努力してきた。
もっともこの時代になってくると農業労働者も漸次農外に流出して、農業労働の確保がだんだん重要になってきた。昭和36(1961)年には「春日部市労働力調整協議会」が発足した。
昭和39(1964)年1月に住宅団地武里団地の造成の発表があった。当時春日部市内は土地ブームの話題でもちきりになった。麦畑が意外に高い値段で売れたなどの話で麦の手入れも野菜の手入れもおろそかになりはしないか心配させられるほどであった。春日部市政としても市内の農地の動向にますます強い関心を持ち始めた。そして市農業委員会も農地対策に追われた。
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
現代(昭和戦後期)
第一章 戦後の復興と春日部市域
第四節 農地改革の実施と農業
市域農業の動向(P351より)