【春日部市史】戦後の春日部市域農業1

【春日部市史】戦後の春日部市域農業1

敗戦直後の農業

敗戦直後の春日部地域の農業は生産するというよりも国が制(ママ)り当ててくる農家への義務、特に米・麦の供出割合をどう軽くし、自分の家の食糧を残すかという傾向が強かった。それに、この間に村の中の不正問題などをめぐっての争いなどが発生し、混乱していた。肥料も十分ないし、燃料もないし貨幣価値が下落して、物価が日毎に上昇した。農業生産にじっくり取り組む条件がなかった。手持ちの農産物を良い値の時に手放して儲ける「闇屋」が横行し、闇屋に頼らなくては日々の生活が成り立たない時代だった。

春日部地域もまず当時の新聞をに賑わした記事は、供出米の割当の是正をもとめて陳情した。「東武春日部町では供米割当に不公平があると去る二日埼葛地方事務所に是正方を陳情した、すなわち同町町会の陳情によると他町村が十九年度に比し一割五分減少しているのに対し春日部町は五分五厘しか減少していず数字的には十九年度四千三百七十五石、二十年度四千百十五石である。その理由としては、割当に際し同事務所では実際の作付け反別によらず計画作付け反別によった事で実際の収穫量を無視し反当たり一石六斗、陸稲七斗としたこと、また、自家保有米を同町内牧は純然たる農村地帯たるにもかかわらず商業地帯同様としたことなどがあげられている」。

こういう記事に加え「武里村の幹部総辞職」の記事、も載った。こういう紛争混乱のなかで昭和21(1946)年6月29日の記事は春日部町の稲作用水不足の記事が載っている。これによると埼葛管内に水飢饉……3000数百町歩が植え付け難で、各町村と連絡して用水作業を急ぐ。このうち「手持ち石油でやっと田植え」として「春日部町では干天で水田に亀裂が生じたので同農会の手持石油を各農家実行組合に配給し、古利根川から動力揚水機で引水二日前ほどから田植えを開始した。用水に便利な場所は、植え付けができた。揚水利用のできぬ場所は降雨をみこして棒植えを始めた耕地もみえる。」と記している。

また、敗戦後昭和21年6月4日には「野菜の生産地に住みながら県南都市より高価な野菜を買わされてる春日部、越谷町にも、生鮮魚介、野菜の再統制で6月中旬からいよいよ配給制度の廉売実施をする。配給方法は従来の荷受け機関を利用して隣組配給をするが配給側であっても家庭に必要のない物は購入しなくてもよいので、配給残量は自由販売にする」。

昭和21年5月15日には「春日部町の陳情に知事も折れる」として「春日部町二十年度産米供出割合は四一一四石で前年度の割当に比し数十年来の不足にもかかわらずわずか七分八厘減となっていたため、町農業会では地方事務所に再三訂正方を懇願したが、県の体面上できぬと断られて来たので春日部町では過日関根町長、新井農事組合長等西村知事に会見、春日部町の実情を陳情」、「知事も春日部町の割当一反歩一石一斗二升は過重と三百石の減額を認めたので町農業会では割当三千八百十四石の完遂に最期の馬力をかけている」。

こういう混乱はなかなかおさまらなかった。しかし、占領軍による農地改革の強力な推進などは、昭和25(1950)年ごろから農村の民主化を推進し農民に農業生産に取り組む力を与えた。

三十年産米の大豊作


そしてこの農地改革による農民の解放の喜びは、朝鮮戦争(1950年)の勃発、軍需景気が幸いして景気が上昇し生産の基礎資材の生産の復興につれて肥料や農機具などもでまわり、春日部の農業にも、画期的な時代が到来した。それは、昭和30(1955)年産米の大豊作だった。そして食糧事情も好転してきた。そして昭和30年産米から米の集荷制度も改まった。それは供出割当てではなくて生産者の自主的売渡しと、生産者から委託を受けた集荷業者の活動促進を基調とした事前売渡し申込制にかわった。当時の春日部地域の売渡し申込量は、約1万7500石であった。この内訳は各農協単位で春日部約1400石、豊春5200石、武里4600石、幸松3900石、豊野1200石その他であった。そしてこの予約数量は完納した。

それに農業生産の漸次広がって、園芸野菜類、畜産と広がりを見せてきている。すでに昭和33(1958)年には「春日部園芸協会」が発足し、16出荷団体が組織を結成した。これは、伝統にしたがっていたのではこれからの青果物の取引が有利に進んでいかなくて、良い品物を、良い姿で、組織の力で計画出荷して平均値を狙って、関係16出荷団体が結束しなくてはならない、という理由からであった。敗戦直後の混乱から僅かな期間ではあるが、すでに新しい農業の時代に入った。新しいところでは「内牧産のトマト」も当時の代表的な春日部産トマトだった。昭和34(1959)年時点の内牧産トマトの作つけは約8ヘクタールで6月下旬がビニールかけ早取りの出荷最盛期で、毎月3800キロ(約千貫)のトマトが春日部、岩槻、越谷、大宮の青物市場へ向け出荷されていた。新品種でおいしいので引っ張りだこと言われていた。しかも春日部の指導者は大変早い時期から農業生産への先進的な取り組みを強調している。

『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
現代(昭和戦後期)
第一章 戦後の復興と春日部市域
第四節 農地改革の実施と農業
市域農業の動向(P351より)

  ※山梨県北杜市産当時トマトです

春日部市史カテゴリの最新記事