粕壁町と内牧村の合併
行政機構の整理
昭和17(1942)年6月全国町村長会は、町村決戦体制確立実行方策要綱を出し、(1)町村内の諸勢力の結束強化のため、その指導性の確立、(2)町村内諸組織の統合と事務の能率化、(3)町村内諸団体・組合活動の合理化と食糧増産、という三大目標を発表した(『新編埼玉県史』資料編20)。
翌18年6月市制・町村制改正に基づき、埼玉県は「町村制の改正に関する通牒」を出し、戦時体制に即応した行政機構の改変を行った。これによると市長は内務省が任命し、町村長は従来どおり町村会で選出されたが、知事の認可が必要とされ、6月1日以降実施された。また参与制度を導入して、町村会の権限が縮小された。さらに、町内会・部落会の財産権が認められ、名実ともに行政機構の末端組織とされた。このように、町村に対する国家の統制が強化され、中央・地方行政組織のいち原価が進められたのである。
粕壁町は、同18年12月参与条例を制定した。参与は町長の諮問機関とし、町会議員、団体代表者、学識経験者から町長が8名選任し、任期は2年とした。町長が議長を努め、町政の重要かつ総合的施策と運営を図り、参与の秘守義務が明記された。参与の具体的な構成メンバーや審議内容は分からないが、いずれにせよ重要な施策はここで決められていった。
なお昭和15年10月現在で、北葛飾郡内の町村長が欠員となっている自治団体は5か村に及んだ。このなかに幸松・豊野両村も入っていた(昭和15・10・24 東京日日新聞)。こうした事態は、粕壁町長の場合でもそうであったが、このころの首長選出は住民の直接選挙によるものではなく、町村会の密室のなかで決定されるという点が表面化したものと言えよう。
ところで、地方行政機構の統制強化と市町村職員の消臭などによる吏員の減少のなかで、行政事務を補強し、県と市町村との連絡・統制を強化するために地方事務所(連絡部)が設置された。昭和17年7月県内の7か所に設けられ、南埼玉・北葛飾郡を管轄する埼葛地方事務所が粕壁町に置かれた(昭和17・7・2 東京日日新聞)。そして同事務所の指導で埼葛町村長会が結成され、同18年1月会則と役員が決まり、会長に鹿間粕壁町長、副会長に渡辺杉戸町長が就任した(昭和18・1・6 東京日日新聞)。
合併の推進と分離要求
町村行政機構の整備縮小の一方で、市町村合併が進められた。明治23(1890)年の市制・町村制を前に大規模な町村合併が実施されたが、この町村合併は、国政委任事務を遂行し得る行財政能力を持つ地方組織=行政村と伝統的な村落共同体的組織=自然村という「二重構造に再編」するという目的を持っていた(中村政則『天皇制国家と地方支配』)。
その後、合併は散発的に行われたが、戦時行政が推進されるなかで、昭和17(1942)年6月「町村合併の手引」が出され、強引とも言える市町村合併が推進された。ただ内務省は、川口・大宮市など大都市集中化の合併を避け、二ないし三町村ぐらいの合併を基本方針とした。
管内に小規模の町村が比較的多く抱える埼葛地方事務所は、同年7月管内73か町村を22か町村にする試案を発表した。同案によると、春日部市域では粕壁町・豊春村・内牧村・武里村・幸松村・豊野村一町五か村、総人口2万3051人とする合併案であった(昭和17・10・6 東京日日新聞)。この試案に対し、鹿間粕壁町長は「各町村とも数十年来の歴史に終止符を打つことであり、上の方で考えるように簡単にいくわけにゆくまい、兎に角慎重熟慮すべき重大問題」であるというコメントをだした。このように関係町村長は、いずれも合併を慎重に進めるという姿勢であった(昭和17・10・8 東京日日新聞)。
この試案が出されて以降、粕壁病院と組合立青年学校の設立など一町五か村の共同事業など、合併に関連した話し合いは進んだ。その後各町村の表だった動きはなく、同18年5月市制・町制改正と県会選挙を前に、協議会を開くなど再び合併に向けた動きが見え、町会や区長で討議が進んだ。しかし、まとまるまでには至らず、粕壁町と内牧村の一町一村がようやく合併に合意した。
1年3か月の同19年1月、粕壁町臨時町会において内牧村との合併に関し、町名などの討議がされた。町執行部から町名を「春日部町」に変更する原案が提出された。これに対し、田村新蔵・小林保次郎の両議員からこれまでの「粕壁町」を継続するとの意見が出され、山田英雄・久保田四七八議員から原案賛成の発言の後、裁決の結果、町名変更案が賛成多数で採択された。こうして、当初一町五か村の合併案は一町一か村の合併案に縮小し、昭和19年4月1日戸数2111戸、人口1万375人の春日部町が誕生した。
だが、この合併も「戦時中当局の実情を無視した」強制的な合併によるものとし、敗戦後の昭和21(1946)年2月旧内牧村の新井彦市町議と尾堤政右衛門農業会副会長を代表とする協議会が結成され、分離要求運動が展開された。春日部町では分離までに至らなかったものの、埼玉県全体で川口・鳩ケ谷の分離など6件に及んだ。
春日部町会議員選挙
合併に続いて、昭和19(1944)年4月18日合併後初の春日部町会議員選挙は実施された。定数が18人から24人に増員された。立候補届出の締切日までに旧粕壁町から20名、内牧村から7名が見込まれ、最終的に28名が立候補した。また前回昭和17年5月の翼賛選挙は推薦性であったがこの選挙では推薦制が廃止され、届け出による「自由選挙」が実施された。しかし政策の違いや政党色は表面には出なかった。
投票の結果、旧粕壁町の棄権率9.8パーセント、同じく旧内牧村がやはり10パーセント弱であり、全体の投票率が非常に高かった。当選者の内訳は、新人が4名、前職14名、元職6名で、新人の比率が低く、復活組の元職が比較的高いことがわかる。また旧粕壁町の議員は18人、これに対し旧内牧村は6名であり、粕壁町の勢力が強かった。
そして同年7月には第一回春日部町会が開催され、町政は動き出した。なお、合併後最初の町長は県から派遣された一ノ瀬佐一が就任し、一か月後の5月15日に旧春日部町会議員の関根喜兵衛が町長に選ばれ、承認された。
氏名 | 新旧 | 出身 | 氏名 | 新旧 | 出身 | |||||
坂巻千代吉 | 元 | 粕壁 | 染谷松兵衛 | 前 | 粕壁 | 原 梅太郎 | 元 | 粕壁 | ||
斉藤久兵衛 | 新 | 粕壁 | 尾堤政右衛門 | 元 | 内牧 | 田口 昌訓 | 前 | 内牧 | ||
鹿間市兵衛 | 元 | 粕壁 | 関根喜兵衛 | 前 | 粕壁 | 渡辺浪太郎 | 新 | 粕壁 | ||
村田 富弥 | 前 | 粕壁 | 山田 英雄 | 前 | 粕壁 | 小林保次郎 | 前 | 粕壁 | ||
筧田勝三郎 | 前 | 粕壁 | 山崎新太郎 | 前 | 内牧 | 松本 幸 | 前 | 内牧 | ||
伊草 茂 | 前 | 粕壁 | 新井 彦市 | 元 | 内牧 | 川島 活寿 | 前 | 粕壁 | ||
君塚 皎 | 新 | 粕壁 | 時田 泰助 | 前 | 粕壁 | 九法 繁蔵 | 元 | 粕壁 | ||
伊藤 昇 | 前 | 内牧 | 藤村 豊次 | 前 | 粕壁 | 村田 辰雄 | 新 | 粕壁 |
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
大正・昭和戦前期 第三章 戦時体制と春日部町の成立
第二節 春日部町の成立(P267)より