埼玉箪笥同業組合の設立
春日部市域の箪笥桐箱製造業は、麦稈真田・麦藁帽子製造と並んで重要な産業の一つである。ここでは大正期からの生産状況とその組織化についてみることにしよう。
昭和初年ごろまでのこの地域における箪笥は、「東京タンス」の銘柄として販売され、箪笥職人が農閑期に生産し、地場産業として発展した(「春日部のタンス産業」)。他方、箪笥販売商は『商工人名録』(大正3年)によると、2名いたことがわかる。一人は、厚見重次郎が釜重という屋号で箪笥と一緒に陶器・漆器・指物を販売し、他の一人は関根勝孳郎で、大正2年(1913)埼玉箪笥合資会社を設立していた。
大正元年11月埼玉県内の箪笥商は、製品の品質向上や販路拡大のため、141名が浦和町に集まり、埼玉箪笥商組合を結成した。組合長に厚見重次郎が選出された。また評議員には15名選ばれたが、そのなかには関根勝孳郎がいた。結成総会参加者148名中南埼玉郡から27名、北葛飾両郡から11名が出席した。
関東大震災直後の大正12年(1923)南埼玉・北葛飾両郡での製造高は箪笥が2万組、用箪笥1万6000本であった。同13年には前年を上回ったものの、14年には1万8300組、用箪笥1万3000本となり、生産量、生産額ともに減少した。
販売先は大正12年に東京が69.4パーセント、次いで関西が12.5パーセントで、埼玉はわずか4.7パーセントであった。しかし同14年には東京61.2パーセント、関西16.0パーセント、埼玉4.5パーセントであり、関東大震災で打撃を受けた東京の比率が下がり、関西・北海道などが上昇した。
こうした状況のなかで、大正15年6月南埼玉・北葛飾両郡の箪笥製造業者と販売商230名は、震災後の経営改善や粗製乱造の取り締まりの強化を目的に、重要物産同業組合法に基づく同業組合の結成を埼玉県に申請した。この時、発起人代表には島村忠太郎が就き、その他粕壁町から4名、内牧村・田口利宇衛門他2名、豊野村・島田仁三郎他1名、幸松村・埼葛桐箱同盟会長の関根甚吉が名を連ねた。
同年12月に同業者組合設立がいったんは認可された。しかし、この重要物産同業者組合法は、設立地域の同業者3分の2以上の賛成があれば、強制的に加盟させられるというもので、第一次大戦の反動恐慌と大震災によって景気は落ち込んでいるなかで、同業組合は経営規模の違う箪笥業者必ずしも有効な組織とは言えない立場の人々もいた。こうしたことなどが原因で設立に反対する業者は次第に増えた。
粕壁町の小島信太郎を代表に反対委員が結束して、一時賛成に回っていた者を説得し、昭和2年(1927)9月の設立総会では総勢420名のところ、賛成が150名と約3分の1に止まった。翌10月に再度設立総会がもたれた。この時の組合員総数516名のうち451人が参加し、このうち委任状は189名であり、同3年1月ようやく設立が認可された。だが同7年には組合は解散し、価格協定や市場調整などを行う埼玉箪笥振興会に再編成された(『埼玉の桐細工』)。
中小商工業者の減税運動
昭和2年(1927)の昭和恐慌に続いて、昭和4年11月ニューヨークでの株式大暴落にはじまる大恐慌が浜口雄幸民政党内閣の金輸出解禁・財政緊縮政策による産業合理化、大企業の市場支配強化の進行と重なった。これがいわゆる昭和恐慌と呼ばれているもので、中小商工業者に深刻な打撃を与えた。
埼玉県内の地場産業の生産高は、昭和4年に2億4039万円、同5年1億7385万円、同6年1億5725万円であり、4年を100とすると5年は72.3パーセント、6年には65.4パーセントに縮小した。そして、4年から6年の産業別生産高の推移をみると、春日部市域の地場産業である木材・木製品が466万円から371万円へと20.4パーセント減少し、麦稈真田帽子は1万1000円から7000円へと36.4パーセント減少して、いずれも大幅に後退した(『埼玉の地場産業』埼玉新聞社)。
昭和9年の営業税の申告を控えた埼葛地域の商工会は、中小商工業者の窮状を訴え、減税運動を組織する一方で、粕壁町の山田半六(粕壁町商工会商議員)、吉川町の川口市太郎、幸手町の小林靖司の代表3人が粕壁税務署へ出向き、減税の陳情を行うことを決議した(昭和9・1・24 東京日日新聞)。こうしてこのころ、規模商店・産業組合などの進出によって、最も影響の受けやすい中小商工業者は、営業と生活を守るため独自の減税運動・商権擁護運動・反産運動を展開したのである。
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
大正・昭和戦前期 第二章 昭和恐慌化の春日部地域
第一節 銀行の倒産と商工業(219)より