震災の発生と被害
大正12(1923)年9月1日午前11時58分、伊豆半島沖を震源地とする大地震が関東地方一帯を襲った。埼玉県東部は、夏の太陽が照りつける厳しい残暑の一日であった。
当時武里尋常小学校五年生の押田茂忠さん(市内備後)の話によると、「午前11時ごろには二学期の始業式から帰り、両親の手作りのうどんを食べ終わったその時、突然地面が大きく揺れ、這って家の前の庭に飛び出した。深さ4~5尺(約1~1.5メートル)ほどの地割れが続き、裂け目から貝殻やマコモなどが吹き出していた。また段差のあった田圃と畑は同じ高さになった」という。こうした地面の亀裂や段差は、古利根川流域の自然堤防地域の至る所で見られた。なお、「新学期には新築の校舎で勉強する予定であったが、倒壊してしまい、約半年ぐらいは弥名寺・光明寺・光琳寺に分散して授業が行われた」。
また、粕壁町の皆川政造さん(当時粕壁尋常小学校三年生)は次のように語っている。「古利根川で魚釣りをして家(洋品店)に帰り、昼御飯を食べ始めたころ、まるで船に乗った時のような横揺れを感じ、やっと柱につかまった。その直後に“ダダーン”という大きな音を立て、日光街道沿いの商店が将棋倒しのように崩れた。町役場や小学校も全半壊し、まともに建っているのは数軒ほどで、倒れた家が道路を塞ぎ、壁土などの埃で煙が立ち込めていた。そして、蕎麦屋から火が出て数軒が火災に遭ったり、三河舎(牛乳屋)の牛小屋が倒れ、死んだ牛の肉が町内の人に配られた、ということもあった」。
埼玉県内の被害は、東京や神奈川ほどではなかったものの、死傷者734人、建物の全半壊1万3719軒であった。とりわけ県南部の足立・北葛飾両郡の被害が大きく、粕壁町は川口・幸手町と共に三大被災地といわれた。春日部地域では死傷者は豊春村で28人ともっとも多く、建物の全半壊は武里村で62.1パーセントにも達した。一方、内牧村のように県平均を下回るような地域もあった。
ところで、地震発生後、朝鮮人や社会主義者に対する殺害事件が起きた。いわゆる朝鮮人虐殺事件、亀戸事件、甘粕大尉事件である。9月1日「社会主義者と鮮人の放火」という流言が現れ、翌日東京に戒厳令が出され、この日に虐殺が始まったのである。
埼玉県でも「不逞鮮人来襲」という噂が流れた。9月2日南埼玉郡長と警察署長は、連名で村長・在郷軍人分会長・青年団長に移牒を出した。その内容は、東京で「不逞鮮人」が放火し、人心を恐怖に陥れている。埼玉県かに侵入する恐れがあるので、在郷軍人と青年団は、万一に備え準備せよ、というものであった。武里地方でも「朝鮮人が暴動を起こし、火事になったといううわさが広まった。警察から朝鮮人の襲撃に備えるよう指示され、竹槍などを作った」。また、粕壁町では、「町に住んでいた朝鮮人に危害が加えられないよう粕壁中学校に移動させられた」と言われている(聞き取り調査)。
このように春日部市域ではいわゆる虐殺事件は起きなかった。しかし、県内では9月3日に深谷・大宮で朝鮮人の殺害事件が発生した。翌4日には南埼玉郡役所から警戒の行き過ぎを注意するよう伝達されたが、本庄町など県北では殺害事件が相次ぎ、倒壊家屋の整理に当たっていた自警団によって二百数十名が犠牲となった(関東大地震六十周年朝鮮人犠牲者調査追悼事業実行委員会「かくされていた歴史」)。そして、3日の神奈川県に続いて、4日には埼玉・千葉両県にも戒厳令が布かれ、軍隊が出動して県下の治安維持に当たる一方、郡役所の移牒や県告諭が出され、「県民の自重」を促した(『新編埼玉県史』資料編23)。
地震の対策と救援
山本権兵衛内閣は支払猶予令(大正12年9月7日)に続き、震災手形割引損失補償令(同27日)を公布するなどして救済資金を放出した。
さらに政府は各府県に対し、被災町村の復興資金(震災借入資金)が融通できるよう、起債を認可した。この借入金(償還方法は無利子五年間据置後、五分利付き三〇か年賦償還及び元金一時償還)は、歳入欠陥補填費、震災応急施設費(小学校校舎復旧)、震災復旧費の三費目に分けられた。春日部市域では、小学校の復旧費として粕壁町、武里・幸松・豊野村が融資を受け、武里村はさらに歳入欠陥補填費とその他の復旧費を借り入れ、春日部市域全体で総額8万9400円に上った。しかし、この借入金の償還が昭和恐慌期と重なり、地方財政を圧迫、東京・神奈川など一府五県で震災借入金免除期成同盟会が設立され、借入金免除の動きは太平洋戦争勃発後まで続いた(武里村収蔵文書)。
このほか粕壁町では、国道4号の拡張を内務省に要求、さらに古利根川の整備・拡張、罹災家屋への県共済会罹災家屋復興資金の貸付などが実施された(大正12・10・13 東京日日新聞)。
このように、復旧対策が実施された結果、建築資材を中心に国内需要は増大し、「復興景気」が出現した。粕壁・武里尋常小学校の「青空教室」や「寺子屋教室」が基本的に解消された。また武里村ではトタン葺きの平屋建て住宅が増え、粕壁町でも街道沿いにバラック小屋が立ち並び、釘やトタンなどの建築資材が高騰したと言われている(聞き取り調査)。
なお、粕壁町の商店は経営危機に陥り、営業税が免除されたが、被害が大きかった埼葛両郡の大正12年度の所得申告者は、前年度の77.6パーセントに低下した(大正13・6・14 東京日日新聞)。
ところで、粕壁町では消防団員が中心となって災害の復旧整備が行われた。だが、余震が長期間続き、町民は不安と不自由な生活を送った。豊春村では517名の罹災者に炊き出しが行われ、111名から229円の見舞金が寄付された(豊春村文書)。そして、家屋の全半壊に対しそれぞれ2円と1円の見舞金が贈られた。また、埼玉県から義捐金として、死亡者に一人15円、負傷者には8円、全壊20円、半壊10円がそれぞれ贈られた。
大地震が発生した1年後の13年9月5日粕壁町の最勝院において、南埼玉郡内で大震災の犠牲となった南埼玉郡内の合同大法要が営まれた。しかし、この時犠牲となった朝鮮人に対する県主催の追悼式は中止となった(大正13・8.21 東京日日新聞)。
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
大正・昭和戦前期 第一章 大正デモクラシーと社会経済の整備
第五節 関東大震災と春日部(P199)より