総武鉄道の開通と乗り合いバス営業
総武鉄道の開通
現在の東武鉄道春日部駅は、伊勢崎線(浅草・伊勢崎線間)と野田線(大宮・船橋間)が交差する駅となっているが、この東武鉄道野田線の歴史は大正10年(1921)の北総鉄道会社の設立に始まる。北総鉄道は、同年11月に千葉県の柏・船橋間の敷設免許を獲得し、12年7月、千葉県営鉄道から野田・柏間(14.3キロメートル)の路線(明治45年5月開業)を譲り受けて営業を開始した。その後、北総鉄道は大正13年(1924)12月に柏・船橋間(19.9キロメートル)の路線延長を完了し、15年には野田から粕壁を経て大宮に至り、そこで国鉄高崎線及び東北線に接続するという新路線の敷設を計画した。北総鉄道は、茂木家、高梨家など野田の有力な醤油醸造業者によって、その製品輸送の便を図るために設立されたものであった。
北総鉄道による野田・大宮間の路線延長は、大正15年5月31日に免許を得、昭和3年(1928)2月14日に工事施工の許可を得た。早くも、同年8月13日には線路敷設工事に着工し、翌4年11月に大宮・粕壁間(15.3キロメートル)が開通、5年10月には粕壁・清水公園間(2.4キロメートル)が開通し、大宮・柏間に直通電車が運行するようになった。
総武鉄道の誕生は、埼玉県の鉄道網の形成にとっては、画期的な意義をもった。旧『埼玉県史』(全七巻)は、その意義について次のように述べていた。
「県内の各鉄道が何れも東京を中心として放射線状に敷説せられ、従って本県内にては県の東半部は多く南北に縦貫するもの、県の西半部にては西南に貫く線路のみで、県内相互に於いて或は東西に東南に連絡する交通機関の欠乏に苦しんで居たが、之を補はんとするものに西武鉄道の川越・大宮間と総武鉄道大宮・野田間が発生した。……本線(総武鉄道……引用者)は西武鉄道並に西武軌道と共に本県を東西に貫通して帝都外郭の環状線交通をなす唯一のものであり、西は八王子・国分寺に、東は千葉県船橋に達する本県内の連絡路線として重要なる役目を演ずるものである。」
このように、総武鉄道は、野田の醤油輸送を目的として開通したが、埼玉県の鉄道網の中では、大宮で国鉄高崎線及び東北線に繋がり、西武鉄道(国分寺・川越間)、西武軌道(川越・大宮間)とともに東京外郭の環状線をなすものとして重要な意義をもった。
東武鉄道による総武鉄道の合併
総武鉄道は、戦時下に入ってからも活発な輸送を展開していた。同社の『第四拾回報告書』(昭和16年10月~17年3月)は、「前年同期に比し一般旅客及定期旅客漸増の趨勢は以前として顕著なりし為、客車収入に於て8万2543円2銭(2割5部6厘)を増加し、貨車収入に於ては醤油及肥料等の輸送減少したるも砂利及野菜等の移動活発なりし為、2672円67銭(1分5厘)を増加し、結局運輸収入に於ては8万5362円33銭(1割6分8厘)を増加せり」と報告していた。このように戦時下に入り貨物輸送はもちろん、旅客輸送においても総武鉄道の収入は大幅に増加した。特に、旅客輸送の増加には注目すべきものがあり、同社の『第四拾壱回報告』(昭和17年4月~同年9月)も「前年同期に比し一般旅客及定期旅客増加の状勢引続き顕著なりし」と指摘していた。このことは、総武鉄道が戦時下に入って労働者の通勤線としての性格を示しているように思われる。
東武鉄道が総武鉄道を合併するのはこのような時であった。昭和19年(1944)3月、東武鉄道は、時局下の交通調整の必要から総武鉄道を合併したのであった。政府は、戦時体制が深化していく中で、戦時輸送力を最も効果的に発揮しようとしていたが、そのような戦時輸送統制対策の一環として地方鉄道の買収・合併が推進されていったのである。東武鉄道による総武鉄道の合併も、そのような戦時下の輸送統制の趣旨に基づくものであった。
合併後の東武鉄道の役員構成を見てみると、総武鉄道側からは取締役に茂木七左衛門、監査役に茂木七郎治が就任したのみであった。野田の醤油醸造業者によって設立された総武鉄道も、ここに茂木家、高梁(原文ママ)家の支配力は著しく後退したといえる。
しかし、総武鉄道の合併は、東武鉄道の経営には多大な寄与をなした。東武鉄道の『第九三回事業報告書』(昭和18年10月~19年3月)は、次のように述べていた。
「時局の進展に伴ふ異常なる旅客貨物の激増に対応し全能力を発揮し重点且計画的輸送に努めたると総武鉄道を合併したるにより対前年同期に比し旅客収入に於て542万2223円を増し貨物収入に於ては51万348円を増加しえたり」
乗合バス営業の開始
粕壁から岩槻を経て大宮に至る道路には、もともと馬車が通じていたが、大正期になると乗合バスがこの区間で営業を開始するようになった。岩槻自動車や総武鉄道によって粕壁・大宮間の乗合バス営業が開始されたのである。
大正3年(1914)3月、大宮・岩槻・粕壁間の乗合バス営業が計画された。出願したのは、大宮の若木楼の経営者角田米吉であった。この乗合バス営業の出願は、ちょうど計画が進められていた岩槻電気軌道と路線が競合したため、不許可となった。しかし、それから1年後の大正4年3月には同区間の乗合バス営業が開業し、その後休業状態に陥ったが前述の角田が営業を引き継いだ。
大正5年1月には、岩槻自動車会社が創業した。同社は、同年2月11日から岩槻・大宮間のバス営業を開始し、4月21日には営業区間を岩槻・粕壁間にも拡大した。岩槻自動車は大正6年冬から運行を停止するに至ったが、岩槻電気軌道などからの援助で経営を持ち直し、岩槻・粕壁間には約30分ごとに1日25往復のバスを運行するようになった。しかし、昭和9年(1934)に岩槻自動車は、経営権を千葉県野田町の吉田甚左衛門に譲渡した(『岩槻市史』通史編)。その後、この区間の乗合自動車営業がどのような経過をたどったかは不明であるが、昭和12年現在では総武鉄道が粕壁・岩槻・大宮間の乗合バス営業を行っている。運行回数は1日66回で、片道の運賃は35銭であった(『大宮町勢要覧』昭和12年)。
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
大正・昭和戦前期 第一章 大正デモクラシーと社会経済の整備
第三節 交通網の発展(P184)より