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武里村
粕壁町がいろいろな機能をもった町だとすると明治末期の武里村は農業と手工業の村であった。明治43(1910)年の粕壁町の人口は5870人であった。武里村は、人口3542人で、武里村の総戸数は501戸、うち農業が7割の353戸、工業が1割の55戸、商業が1割の64戸であった。この他労働が8戸、僧侶が7戸、医師が4戸、官公吏が3戸、神官が1戸、その他が6戸であった。
生産物
商業の盛んな粕壁と違って武里村は、家内手工業、農家副業が発達していた村であった。武里では米や大麦のほかに養蚕が行われていた。養蚕戸数は、明治42(1909)年85戸が漸次減少し大正元(1912)年には50戸まで減った。明治43(1910)年までは春蚕(掃立枚数40枚 ※4月中旬に孵化した蚕)だけだったが、44年からは春、夏、秋の三回(75枚)飼育するようになり、飼養農家数が延べ145戸に増えた。ただし桑畑は1.5町であった。大正元年度には5町歩に拡大し、飼養戸数は155戸に増えて、養蚕業への期待が大きくなってきた。養蚕の時価総額は明治42年の1325円から大正元年には2451円に増えた。
手工業生産
武里村の工業は、家内工業の域を出ていなかった。明治44(1911)年の武里村の麦稈真田、経木真田、箱類、タンス、足袋を作っていた戸数が71戸であった。従業員数が229人であった。この一戸当たり平均従業員数は3.2人であった。生産額は4682円、一戸当たり平均生産額は65円90銭、一人当たり平均20円40銭であった。
当時武里村の一町経営の自作(水田四反、畑六反)農家で5人家族の生活費が被服費を含めて237円44銭と計算している。一人当たり平均生活費は年間47円50銭である。こういういう低い農外稼ぎで暮らせた人は、零細な農家で余暇を使用して家計補助的な収入として作業をしていた人たちである。一人当たり平均農外生産額を計算すると種類によっていろいろの高低がある。足袋が、50円、麦稈、経木真田がそれぞれ4円、12円30銭、わらじ、むしろが8円、12円80銭、ざる、籠類が1円50銭、タンス、洋タンス、書籍(書籍箱)がそれぞれ103円50銭、87円50銭、40円であった。このなかでは、タンス製造部門では専門的な一人前の職人として暮らせた人がいたのだろう。それでも、明治45(1912)年に粕壁方面には製作者が各地に散らばって普通は農業の余暇を利用して製作していた。「専業ハ二、三割ニ過ギズトイウ」と示している(『埼玉県の地場作業』埼玉新聞社)。
もっとも大正期には、味噌や醤油、玩具、縄などの生産が加わり、むしろ生産が大幅に伸びて総生産額1万1653円と前年の約2.5倍になった。ただしこれまで記した武里村の工業生産額(4682円)は、農畜養蚕水産の生産額(1万3656円)と比べると三分の一程度のものだった。
粕壁町から買っていた商品
武里村にとって粕壁はどんな商業の町だったのだろうか。当時武里村で販売する品物のうちどんな品物が粕壁から入っていたのだろうか。総品目25のうち17品目が粕壁から入っていた。これは、材木、木綿織、木綿糸、木綿織物、化粧品、学校用品、豆腐、菓子類、味噌、醤油、酒酢類、製茶、下駄、売薬、煙草釘類、乾麺・うどん、荒物類であった。もっともこれらの品物は粕壁だけから入っていた品物だけではない。粕壁だけから入っていたのは「学校用品」と「売薬」だけであった。そして、粕壁と共通な品物は岩槻町、越谷町からそれぞれ5、10品目、そして東京から8品目であった。一部自給を含めて村内で自給していた品物は、足袋、下駄、草クツモチ、白米、挽割麦、刃物類であった。武里の多くの人々にとって粕壁町は、生産資材や日常品を供給する卸・小売り商人の町だった。粕壁にとって、武里は、岩槻、越谷、東京、その他周辺の町村の商人がお互いに品物を売るために競争する一つの地域だった。
『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
第三章 近代化の進行と春日部
第二節 町や村の変貌 武里村(P100)より