【春日部市史】麦わら帽子と赤沼ビールの起源

【春日部市史】麦わら帽子と赤沼ビールの起源
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麦わら帽子の起源

開国後、埼玉県下でも蚕糸業、茶業などの産業が一躍脚光を浴びるものとなったが、水田単作地帯の春日部周辺は旧態依然たる状況が続いた。埼玉郡下一帯に広がっていた綿作や藍作はやがて輸入品に押されて、衰退の一途をたどる有様であった。

こうした中で特筆されるべきは麦わら真田業の発展である。真田紐はすでに明治前期に輸出が試みられたが、本格化するのは、武里村大畑の山口角蔵が明治14(1881)年に東京大森の問屋に出荷してからである。これが東京市場で麦わら帽子の材料として高い評価を受け、一躍同地方の家内工業として普及した。

在来はもっぱら肥料としてのみ利用されていた麦わらが、真田紐に加工されることにより一躍脚光を浴びることになり、周辺農村でも麦わら製造が盛んとなった。明治35(1902)年の『埼玉県営業便覧』によると、当時の粕壁町には麦わら仲買、問屋の外に麦わら真田帽子の製造業の名も見えており、現在春日部市の特産品となっている麦わら帽子の製造が、このころから始まったことを示している。

新産業の誕生

ほかにも赤沼ビールの製造や種子販売をする登用園芸会社なども出現した。ただ資料不足により、その実態は不明であるが、次のような話が伝えられている。

 ビール製造業

赤沼の田中氏宅では明治20(1887)年ごろにビールを生産していました。いまから4代前の恒固氏が、この地でビールの生産をはじめたことから、今でも近所から「ビール屋さん」と呼ばれています。

浅草から赤沼の田中家に養子に入った恒固氏は、ドイツから醸造機を買い付けビールの醸造をはじめました。そして、マルコ商会という会社を設立し、マルコ麦酒という商品名でビールを売り出しました。当時ビールは、まだ一般には知られていませんでした。マルコ商会の開業祝いに駆けつけた人の中には、アルコールが入っているとは知らずに、酔って立ち上がれなくなった人もいました。

マルコ麦酒は、埼玉ビールと商品名を変え販路を延ばしました。大手三社が合併し、大日本麦酒を創立する際に誘われましたが、その話を断りました。その後、大手のビール会社に市場を独占されてしまい、埼玉ビールは廃業しまいました(広報かすかべ第434号)。

このビール製造業者の活躍は、当時の企業家的精神に近づこうとした一例といえる。次例の東洋園芸の場合も同様である。

東洋園芸

これは、数人が共同で種子の輸出に従事した事例である。

「古利根の一葦を隔て豊野村に東洋園芸株式会社あり。該村の有力者遠藤栄太郎他三名の経営する所にして英米仏伊などの諸外国より種子を輸入し、または之に輸出す故に東京および地方の栽培者にして種子を此処に供給を仰ぐもの多し。その規模の大なる我国第一と称せらる。またこの東洋園芸株式会社社長遠藤栄太郎氏の計画経営せる桃林あり。古利根川の沿岸砂地に培養せらる桃の種類は天津水蜜桃にして果実は大かつ美味なり。花の三月、果実の七月には都人士(とじんし)の節を曳くものはなはだ多し」(明治43〈1910〉年武里村郷土史)
※市史の表記から、カタカナをひらがなにし、句読点を追加しています。

『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
第三章 近代化の進行と春日部
第一節 新産業の出現と地主制度の進行(P92)より

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