【春日部市史】粕壁銀行の合併と商工業

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粕壁銀行の合併と商工業

粕壁銀行と武州銀行の合併

明治28(1895)年12月に田村新蔵など地元中小商工業者が株主となって設立された粕壁銀行は、資本金10万円の小銀行であった。翌年1月に業務を開始し、3月には幸手町に支店、さらに同月明治貯蓄銀行が開業した。その後31年には20万円に増資され、経営は順調に拡大したが、34年支配人が米相場に失敗したことが発覚、中井銀行などからの借入金で経営危機を乗り切った。しかし、この時の打撃は大きく大正4(1915)年資本金を10万円に減額した(『武州銀行史』埼玉銀行調査部)。

埼玉県下の銀行は、大正7年に58もの小銀行分立という状況であり、厳しい経営環境にあった。県信用組合連合会の田中四一郎らは、岡田忠彦県知事に対し、経営基盤の安定した「中央銀行」としての役割を持つ金融機関の設立を要望した。こうして田中新蔵、田中源太郎をはじめ県下の名望家が設立発起人に加わり、同年11月武州銀行が設立されたのである。頭取には財界の巨頭渋沢栄一系列の尾高次郎が就任し、小銀行の合併を積極的に行い、経営拡大を図った。最初に吸収されたのが粕壁銀行であった。

赤字決算という厳しい経営状況にあった粕壁銀行は、大正9年1月18日株主総会を開き武州銀行との合併を正式に決め、その権利義務をすべて武州銀行に移転して粕壁銀行を解散することを決議、5月25日合併が認可された。この時の粕壁銀行の資本金10万円、積立金7700円、繰越金2677円は武州銀行に引き継がれた(埼玉県行政文書 大1154 埼玉県立文書館所蔵)。

こうして25年間続いた地元資本の粕壁銀行は消滅した。そして、新たに開業した武州銀行粕壁支店は、中井銀行粕壁支店(明治42年開業)、産業組合ちあわせて第一次大戦後の春日部市域の産業基盤を支える金融機関としての役割を担った。

粕壁商工会の発足

大正9(1920)年の職業別人口を見ると、粕壁町では農業より商工業の比率は高く、半数以上の52.7パーセントであり、商業が工業を上回っている。これに対し、豊春村は農業が圧倒的に多く92.3パーセントに達しており、商工業はわずか4.9パーセントで、武里・豊野両村が同じような傾向である。この中間的な地域が幸松村と内牧村で、幸松村では商工業が19.8パーセント、農業が74.4パーセントであり、粕壁町に接する幸松・内牧の一町二村が商圏を構成していたといえよう。

これを南埼玉・北葛飾全体と比較すると、幸松村が郡全体傾向と似かよっており、平均的な構造であることが分かる。そして、この時の粕壁町は、郡役所の置かれた岩槻町と共に郡域では商工業の中心的な位置にあった。

大正8年3月9日、粕壁町の国税を納める商工業者は、営業税の査定や経営に関わる情報交換・勉強会などを目的とした粕壁町商工会を東武座において結成した。創立総会は、金子仁左衛門が座長となって進められ、会則の決定の後、役員選考に移り、常議員に田村新蔵・鹿間貞吉・厚見弥兵衛・厚見重次郎・金子七右衛門・小谷野忠次郎・関根喜兵衛・山田半六・永島庄兵衛・後藤幸次郎・島根惣助・金子文蔵・関根惣兵衛・篠崎平次郎・鹿間市兵衛・鹿間米蔵・斉藤八右衛門・田村義三郎・佐野伊兵衛・染谷安右衛門・金子仁右衛門の21名が選出され、会長に田村新蔵が推薦された(大正88・3・11 東京日日新聞)。

こうした商工団体は、川越町実業組合の他南埼玉郡では岩槻・久喜・越ヶ谷・菖蒲町に組織されただけであり、地域と会員が限定されていた。大正9年10月5日埼玉県あ全商工業者を対象に、業者同士あるいは経営などに関する諸問題を調整するため商工会規則を決定した。

これに伴い粕壁町商工会は、翌11年1月同規則に基づく組織に再編された。主な変更の内容は、次のようである。第一に商工会「会則」を「規約」に改め、規制が強化された。第二に「理事」は「商議員」とし、会長の諮問に応えるとされた。また「評議員」を「代議員」に変更して、代議員会は総会に替わる決議機関とした。第三に商工会加盟の地域は、これまで粕壁町付近となっていたが、粕壁町と幸松村に限定された(埼玉県立行政文書 大1388 埼玉県立文書館所蔵)。

『春日部市史 第六巻 通史編II』(平成7年3月発行)
大正・昭和戦前期 第一章 大正デモクラシーと社会経済の整備
第二節 春日部地域経済の発展(P166)より

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